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暗黒星雲

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2010年 11月 08日

ゼロ年代の短歌を振り返る

青磁社10周年記念シンポジウム「ゼロ年代の短歌を振り返る」(2010.11.7京都
会館13:00-17:00)を聞いてきた。以下は私の頭のなかのフィルターを通り越したも
のであることをお断りしておく。

第一部は高野公彦さんの講演「ゼロ年代の短歌の動向」。ゼロ年代に発表された歌
40首を材料に、それぞれの歌を次のように分類しながら解説された。分類の最初
の文字だけしかメモしなかったので自分でも復元できなくなった。
①事、②物語、③変、④奇想、⑤不完全。という分類だったように思う。

記憶に残っている言葉は、「あり得ないことを詠うのは良いが、表現が完結してい
ないのは良くない」ということ。「表現が完結していない」とは「どこで誰が何時
何をしたか」が分からないこと。そのうちのどれかを省略することはあるが、省略
されたものを読者の側で補充できるなら良い。しかし、例歌のうちのいくつかは、
読者の側で補充ができないので良くない。
「あり得ないことを詠うのは良い」という高野さんの意見は私にとって心強かっ
た。但し、「表現が完結」の件は、私としては必ずしも完結しなくてもいいのでは
ないかと思っている。

第二部は吉川宏志さんと斉藤斎藤さんの対談。あまり話が噛み合わなかった。対談
ではなく、それぞれ別々に講演してもらったほうが良かったように思う。
印象に残ったのは斉藤斎藤さんによる次の歌の解釈と宇都宮敦さんの言葉「ふつう
のものをふつうに詠う」の説明。

・3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって (中澤系)
「電車が入ります。危険ですから白線の内側まで下がって下さい。」というアナウ
ンスを駅でよく耳にするが、このアナウンスは「下がって」が言いたいことで、そ
れより前の部分は言葉による説明に過ぎない。「下がって」は権力であり、(社会)
システムによる強制である。前の部分の言葉による説明が理解されてもされなくて
も、とにかく強制することなのだ。この歌はそのことを表しているのだ。(斉藤さ
んの言葉どおりではないかも知れないが、このような趣旨と理解した。)

宇都宮敦さんの「「ふつうのものをふつうに詠う」について。
「天才が特別であるような意味で特別なことを詠うのではなく、かけがえのない自
分という特別を詠う」ということが「ふつうのものを詠う」ということらしい。
「ふつうに詠う」については宇都宮さんの言葉の引用そのものには含まれていない
が、「ふつうのもの」を詠うときに、従来のような短歌のレトリックを使って詠う
のではなく、フラットな表現にするということのようだ。穂村さんが言っている
「短歌的武装解除」のことだと思う。

第3部は穂村弘さん、松村由利子さん、広坂早苗さん、川本千栄さんによるパネル
ディスカッションで島田幸典さんが司会された。島田さんの最初の言葉では、「ゼ
ロ年代の短歌」という場合、ゼロ年代に出現した若い歌人達の歌の意味と、誰の歌
であるかに拘らず、ゼロ年代に発表された歌という二つのものを意味するがこの討
論では両者を対象としたいと言っていた。しかし、私にとって興味があった討論の
内容は、従来の短歌レトリックを使うか使わないかとそれらの効果の問題だった。

穂村さんが「短歌研究4月号」での、穂村さん、久々湊盈子さん、永井祐さんの三
人による栗木京子さんの歌の評の場で、若い永井さんと年長の久々湊さんの意見が
対立したことを例として、ゼロ年代の若い歌人たちが従来の短歌レトリックに対し
て感じる拒否反応を説明された。更に穂村さんは、「ここ十年来、このようなフ
ラットな表現の歌を良いと感じる回路が自分の中に出来ている。こういう歌を良い
と感じるかどうかは、頭の中にこのような回路が出来ているかどうかによると思
う。」と言っていた。


特に2部と3部での従来の短歌レトリックを使わないフラットな表現に関する議論
から「短歌研究11月号」の花山多佳子さんによる「裕子さんを悼む」という文章
を思いだした。花山さんは河野裕子さんの言葉を次のように回想している。
<後年、河野自身がこの時期の名歌性を「うそくさくなった」と言うようになり、
しだいに散文的ともいえるフラットな作風に移行していった。そういうところが、
またおもしろい。>
この裕子さんの「うそくさくなった」という言葉と、ゼロ年代の若い歌人たちの従
来の短歌レトリックに対する嫌悪とが同じものなのかどうかは分からないが、少な
くとも方向性は同じように思われる。

by trentonrowley | 2010-11-08 22:26


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